感想
先日、市内のミニシアターに『オオカミの家』を見に行った。一言でいうと、ヤバすぎて体調不良になる映画だった。
素晴らしい、素晴らしいんだけど見ながら「早く終わってくれ…!」と思わざるを得なくなった映画。そんなものは生まれて初めてみた。
今回の記事はネタバレ無しなので、安心して下の予告編から見て行ってほしい。
予告編を見なおしたら、あのときの息が苦しくなった記憶が蘇って動悸してきた。
この予告編を最初に見たときは、これはこの映画の特にすごい場面を集めた名場面集みたいなもんなのだろうと思っていた。しかし実際には、この予告編のノリとクオリティが全編ぶっ通して続く。むしろこの予告編は、緩急がつけてあって見やすいと思えるレベルである。
あらすじは公式サイトとかで見てほしい。なんかチリのカルト集団が作った映画という建前で、チリ政府の助成金とかも入っているらしい。そういう話が、作品の冒頭のナレーションで語られていた。作品の中に謝辞がガッツリ含まれている作品って、珍しい。それはいい。つまりオウ▲真理教や幸福●科学が作ったアニメのような、そういう世界観に基づいて作られたストーリーが見られるってわけだ。しかも、とてつもないクオリティで。
何がどうだったのかは、予告編で見たとおりである。壁に描かれた主人公マリアの姿が、動いていく。新しい絵を上から描いて写真に撮るを繰り返して、コマ撮りのアニメーションになっているのだ。または紙テープみたいなものを芯にして上から紙を貼ったり絵の具を塗ったような塑像が作られていき、それが動いたりする。これもまた新しく作っては写真に録り、その上から塗るを繰り返して作られたアニメーションである。
作画コストが、すっごい。めちゃくちゃたいへんじゃん。どんな執念で作ってるの?などと考える。その画面の1秒ぶんを作るために、どれほどの時間を費やしたのか?と考えさせられてしまう。
どのシーンを見ても、常にである。
見せ場が多すぎる。
こういう気合の入った場面って、1作品につき数分とかで大丈夫なやつじゃないのか。アバンタイトルだけとか。エンドロールの最初だけとか。見てる側の脳に休む暇を与えないような密度でやることじゃないと思う。実際、制作者にはそういう意図があるのだろう。
最初からアクセルベタ踏み。ローギアで10000回転。最後までこのペースでいく。そういうスタミナが、見る側に求められている気がしてくる。
そんな体力、私には無いです!!!とマリアがベッドに縛られたあたりで思った。あの場面のあたりで私は息が苦しくなり、早くここから出たほうが良い気がするんだけど目が離せないので出られないといった状態になった。あとお腹が苦しい。腹の具合がだいぶ悪いんだけど、この映画のせいですか??とずっと考えていた。
最後まで見てしまった今ならば、けっこう最後のほうまで耐えられたじゃん!とは思える。しかし見ている最中は必死だった。マラソンのトップ集団のペースで走らされている素人の苦しさ。そんな感じだと思う。
この作品、見せ場が多すぎて時間の感覚を忘れてしまう。この場面は起承転結でいうとどこなのかが、見ている最中にはほとんどわからなかった。ストーリーがどう転がっていくのかも全然分からなかったため、そういう不安のせいでもあった。
使われている言語が2つある点も、だいぶ気になった。多分チリの人たちに呼びかけている言葉と、マリアに呼びかけている言葉が別の言語になっていたんじゃないかと思う。オオカミの言葉は全部ドイツ語、マリアの台詞を含む女性の声はドイツ語とスペイン語が半々くらいだったと思う。そういうところまで含めて、情報量がとにかく多かった。さらに目から入ってくる手の込んだアニメーション、なんか優生思想的な寓話のようなストーリーが脳のリソースを専有する。
『シンエヴァ』を見た時も、クライマックスでこれに近い状態になった記憶がある。あれは理解できる演出と理解できない演出が半々くらいだったので、時々脳がフリーズしていた。『オオカミの家』は全編が『シンエヴァ』のクライマックスみたいな映画ですと言えば、分かって頂けるかもしれない。この、意味内容が多すぎて脳が処理落ちしても、さらに負荷がかかり続けて苦痛になっていく感じが。
『オオカミの家』の見せ場はクライマックスだけではない。釘付けにならざるを得ない映像と絶妙に不安にさせてくるサウンドエフェクトがずっと続くのだから、見てて疲れないわけがないってことだ。クライマックスあたりで脳の疲労が頂点に達するこの感じは、だんだん頭が変になってくるとかいうヌルい言葉では足りない苦痛だった。多分これも作り手の意図なんだと信じたい。ところで『キンプリ』『キンプラ』は応援上映でどんだけ熱狂しても1時間程度で終わるようになっていたが、あれは親切設計なんだな!と思った。
見終わってから24時間くらい経ったころに、この体験を文章にしなければならないと思った。
なんというか、あまりにもしんどかった。
すごいんだけど、受け止めきるには体力がいる作品だと思った。映画館で見ると、サラウンドシステムのいい仕事っぷりにも驚かなければならない。私はこの作品を、いちばんいい環境で体験できたんだと思う。
ここ1ヶ月くらい、季節の変わり目の影響で自律神経系が弱り、体力が落ちている。そんな時分に見ると、本当にゲッソリできる。
『オオカミの家』、ぜひ映画館で見てください。
補足:コロニア・ディグニダについて
ところでこのコロニア・ディグニダについて、家に帰ってから調べた。そしたら、想像以上にヤバかった。『オオカミの家』のヤバさはコロニア・ディグニダを知らなくても分かるが、知った上だとヒエ〜と思って恐縮してしまう。よくこんな設定でこんな映画撮ったな!!スゲエよ!とあらためて思った。
この記事では落合信彦の「20世紀最後の真実」を参照している。このタイトル、と学会の本で見たことがある気がするぜ。どういうこっちゃと思って調べた。
この本でなぜ落合信彦が南米に行ったかというと、エスタンジアと呼ばれるナチスの秘密UFO基地を探していたからである。その捜索の過程でうっかりコロニア・ディグニダの周りに行ったら危険な目に遭ってしまった、というのが真相らしかった。
なんというか、瓢箪から駒みたいな話だなと思った。
補足:この作品について
これも制作者の意図かもしれない!と上で何度も書いているが、多分そうでもない。海外の記事で見つけたインタビューを何本か読んだが、これが監督のレオンとコシーニャの創作スタイルであり、見た人の具合を悪くしてやろうという意図は無さそうだった。
この作品は、コロニア・ディグニダのパウル・シェーファーがウォルト・ディズニーのチリ版になろうとしたが上手くいっていない映画をイメージして作られた。作品の制作の様子はインスタレーション作品として展示され、それも10数か所の美術館や公共スペースを転々としながら行われた。そういう話は以下の記事で読める。
監督のホアキン・コシーニャは小さいころにコロニア・ディグニダのレストランに行ったことがあるとかいった話。「誰かが何かに賛成しているかが明らかなアートにはうんざりしている」といった話は以下の記事で読める。
アリ・アスター監督の最新作『ボーはおそれている』では、レオンとコシーニャによる12分のアニメが見られるといった話はこの記事から読める。12分くらいで十分ですよねと思った。