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『アメリカン・サイコ』この作品の時代とオチについて考えたこと

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名場面すぎてつい描いてしまった挿絵

アメリカン・サイコと私

 90年代は、シリアルキラーが大流行していた時代である。

 本なら『FBI心理捜査官』、音楽ではマリリン・マンソン、日本の漫画なら『多重人格探偵サイコ』、ジョジョ4部等。映画なら『羊たちの沈黙』、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』等々、どこの界隈でも殺人鬼キャラが流行した。

 というわけで、『アメリカン・サイコ』である。今回の記事は、最近映画を見たのがきっかけで、この作品のオチと作品の時代について正月からダラダラ考えた考察のまとめである。ネタバレがたくさんあるのでお気をつけ下さい。

アメリカン・サイコ (字幕版)

アメリカン・サイコ (字幕版)

  • Mary Harron
  • ドラマ
  • ¥1019

原作を読んだ頃の話

 私はこの作品の原作を読んでいた。『ハンニバル』を読み終わり、もっともっと殺人鬼成分を摂取してえな!と思っていた中学生の頃に、表紙を見て衝動的に買ってしまったのだ。

 しかし、怖かった。『アメリカン・サイコ』はシリアルキラーの生活が淡々と続く記録のような本だった。主人公パトリック・ベイトマンの他人事のような台詞が、どうでもいい他人と会話を続ける様子が、モノローグによって綴られる。そして、ストレス解消のために、無関係の人間が死んでいく。

 その殺しのプロセスは詳細に描かれ、無辜の被害者達が痛めつけられる様子がけっこう衝撃的だった。

 ネズミとチーズのアレのシーンは特に怖かった。これもやっぱり映画になるんですか…!?と思いビビってしまった私は、表紙のイケメンが出てくると知りつつも、映画を見る気にはなれなかった。ゼロ年代前半当時は。

 そして現在。当時のホラー映画界のチャンピオンだった『ブレアウィッチ・プロジェクト』を見てもマイルドに感じてしまうくらいホラーに慣れてしまった私は、小さい頃にタイトルだけで怖がっていた映画を色々見続けていた。そんなわけで、『アメリカン・サイコ』の番になった。

映画は面白かった

 私はこの映画を見て、とても面白い作品だったな…と感じた。原作のことはうろ覚えだったが、あったあった!こんな感じだった!とか思い出しながら、再現度を楽しむことができた。

 そして、パトリックが昼間にストレスをため、そのストレス解消のために夜、人が殺される様子が面白く感じられてしまった。ワルい笑いで味付けされた、コメディのような作品だと思った。

 表現はとてもマイルドだった。メイキングで監督が言っていたが、これは残酷さがテーマの映画じゃないので、表現はマイルドにしたとのこと。確かにこの方が、ショッキングな描写に圧倒されて気がつけなかった、作品の本質に迫れるのかもしれない。上手いなぁ。

 デリバリーのお姉さんを呼んで3Pが始まった時には、遂に問題のアレをやるのか…!と思って覚悟したが、結局そういうことは無かった。やろうとは思って準備している描写はあったが、視聴者の目の届かないところだからOK!という気軽さで見ていられた。

 ただこの記事によると、かの変態デイヴィッド・クローネンバーグが映画化を企んでいたようなので、この人主導で映画が作られていたら、けっこう違った作品になっていたと思う。容赦なくグロくなっていたかもしれないし、もっとわけがわからなくなっていたかもしれない。

m.zimbio.com

 原作は不思議な本だった。全体としてはパトリックのモノローグで構成されているのだが、日常生活と殺人シーンの章と、パトリックが好きな音楽について偏見で語る章が交互に掲載されていた。いきなり前の場面と関係ない音楽語りが始まるので、読みながら困惑したことを覚えている。

 そのホイットニー・ヒューストンやスティングなど、それぞれ1章を割いて語りまくっていたアーティストは、劇中の鬱陶しい語りや劇伴として、違和感なく楽しむことができた。音楽をシーンの中で聞きながら雰囲気を楽しめるのも、映画の良さだ。楽しい!

 でも、この映画のオチは今の私にはスカッとできなくて、物足りなく感じてしまった。物足りないどころじゃない。終わり方が気持ちよくないと思った。

オチが気に入らない

 このオチは確か、原作通りである。あまりにもあっけない終わり方に、読んでいてびっくりしたことを覚えている。変な話だが、そういう小説なんだと思って納得していた。しかし、原作通りだからといって、映画を見て納得はできない。

 原作本は、自分の中の殺人鬼ブームが終わった頃に売ってしまった。今の私には、原作へのこだわりがない。つまり、この記事の中の原作に関する記述はうろ覚えで書いている。その辺は要注意である。

 中学生のころ、『ブレードランナー』を見ろ!これを読め!といって親戚が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を私に渡してきたことがあった。私は本を読み、満を持して映画を見たが、羊はどこにいった…?といって、ただ単にガッカリしたことがある。『ブレードランナー』の儚いエモさを、当時は全く理解できなかったのだ。原作本にこだわりすぎたせいで!

 当時の私は他にも『ハンニバル』や『梟の城』、『2001年宇宙の旅』の原作本を読んでから映画を見て、原作と違う!といって大なり小なりガッカリしていた。ほんとうに不毛なことである。

ハンニバル (字幕/吹替) (2001)

ハンニバル (字幕/吹替) (2001)

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 この頃に『アメリカン・サイコ』の映画を見ることができたら、けっこう満足できたのではないか。当時の私はただの原作厨だったので、そういう点では、この作品の映画化は悪くなかったと思う。

 ただ、今の私はそうは思わない。そのかわり、色々と考えてしまった。オチを変えてもいいじゃん。などと、一瞬考えてしまった。

どういう終わり方が良いのか

なぜこの終わり方なのか

 映画『アメリカン・サイコ』がこのオチに至る理由として、登場人物が頻繁に相手の名前を間違えるなどの、無関心さが原因であるといわれている。確かに、そういうシーンは多かった。

 また、相手の話を真剣に聞いていないシーンもある。パトリックがこんな気の利いた匂わせ発言をしても、ホステスは全然気にしない。一応冗談を言っているんだから、そういうリアクションをしてあげてほしい…と思ってしまう。

ホステス「お仕事は何をなさっているの?」
パトリック「僕は、えーと、殺人と処刑(murders and executions)がほとんどだ」
ホステス「お仕事はお好きなの?」
パトリック「まあ好きすぎるくらいだ なんで?」
ホステス「ええ、私達が知っている男性方はM&A(Mergers and Acquisitions)が実は嫌という方が多かったので」

 準備万端でポールを殺したは良いが、死体の処理のやり方はまあ雑だった。正面玄関には血の跡がはっきり残っていたし、死体を運んだのはタクシーのトランクで、その場面を知人やマンションの受付に見られていた。

 しかし誰も、パトリックの犯行に気がつけない。探偵があのウィレム・デフォーでも、周りの人たちのあいまいな記憶に阻まれ、パトリックの犯行を裏付けられない。そして、ポールの死も、ポールの部屋で行われた殺しも無かったことになった。あれは多分、妄想か幻覚だったんだよ。という終わり方だ。

 というか、登場人物たちは、警察に相談しない。パトリックも警察に自首することはないが、弁護士の知人には電話して、自分のすべての罪をまくし立てて留守電に残した。

 まわりに溶け込むこと(fit in)、つまりヤッピー達の中で目立たなく過ごすことは、世間体を保つことでもある。弁護士に相談することで、あわよくばこの状況を無かったことにできるかもしれないと思ったのではないか。

 ポールの親たちは世間体を気にして、ポールが失踪したことをまず探偵を雇って調べさせた。一応探偵は犯人に目星をつけたが、パトリックの親もまた世間体を気にして犯行をもみ消すほうに動いたんだと思えた。パトリックの妄想と幻覚は激しくなっていくが、多分ポールはちゃんと死んでいると私は思った。

パトリック「87年、ヒューイは最高アルバム『フォア』を発表 傑作「ヒップ・トゥー・ビー・スクウェア」は誰も歌詞を気にしないが、順応する生き方やトレンドの重要性だけでなく、バンドのあり方を歌っている」

 この映画のテーマは、表面だけの関係とか、世間で流行っている陽気なカルチャーと対照的な負の感情とか、そういうものに対する風刺だと聞いた。この胸糞悪いラストのほうが、ブラックコメディとして正しい終わり方なんだろうと私は考えた。

 それはそれとして、この映画の終わり方は私好みじゃない。

メンタルの弱さ

 じゃあどういう終わり方だと良いんだよ?『マニアック』(1980)*1みたいなオチが理想なんだろうか?ただの好みの問題だが、私は色々考えた。


Hip to be Square - American Psycho (3/12) Movie CLIP (2000) HD

 ポールが殺されるシーンでは、いろんな意味で笑ってしまった。この場面は何度見ても最高だ。ストレスがたまる!殺す!というプロセスがメッチャ分かりやすいので、スカッとするホラーとして楽しめる。

 世間ではポール役のジャレッド・レトはずいぶん嫌われているようである。*2今『トロン』第3作の制作に関わっていて、自分も出演するらしいジャレッド・レトがぶっ殺されるあのシーンを見ることで、アンチたちは怒りをなんとか鎮められるんだと思う。知らんけど。

 私が殺人鬼映画を色々見た経験からいうと、パトリックの動機は視聴者にも感情移入しやすく、他とはちょっと違う感じがした。

 この作品の下敷きになっている『サイコ』(1960)しかり、パトリックが大好きな『悪魔のいけにえ』(1974)しかり、異常な人間の異常さが明らかにされるような造りの映画と『アメリカン・サイコ』はちょっと違う。まあ、名刺とかレストランの予約とか、我々パンピーにとってはどうでも良いことでストレスを溜めているあたりは、馬鹿馬鹿しいとしか思えないのだが…。

 パトリックは多分、我々と同じ感覚を共有している人間であるという設定が大事なキャラクターなんだと思う。やつには、『ナチュラルボーン・キラーズ』(1994)のミッキーとマロリーみたいな、堂々たる開き直りっぷりやカリスマ性は全くない。ウジウジしてて、ストレスに弱い。メンタルが弱いのだ。

 生き方がエクストリームなだけで、日常生活でストレスをためたり、人には言えないストレス解消法があったり、自信を持つために四苦八苦する。そして、世間に溶け込むために、努力している。そういう性質が、この作品では強調されている。なので、こんな記事を読んで、やつのダメメンタルを他人事だと思ってる場合か?と私は考えてしまった。

theriver.jp

 そしてだんだん殺しのやり方が雑になり、もうだめだ!という不安の気持ちをぶっちゃけてしまうあたり、パトリックはやはり他の殺人鬼キャラとは違うと思える。殺人鬼界隈なら小者といえるだろう。そういう小者っぷりは、ホラー映画時空なら死亡フラグとして扱われるだろうと私は思った。

ホラー映画時空の因果応報

 ホラー映画の中には、ムカつく人間が死ぬ様子を見て喜ぶ私のようなボンクラを対象にした作品も多い。そういう映画の世界観を、ここではとりあえずホラー映画時空と呼ぶことにする。

 ホラー映画時空では、作品中にヘイト(=死亡フラグ)をためたキャラクターは、たまったヘイトに相応しい死に方をするべきであるとされ、視聴者はその因果応報な死亡シーンを見て喜ぶ。

 ホラー好きな友達とホラー映画鑑賞会をすると、開始直後から死亡フラグのチェックを始め「オイオイオイ」「あいつ死んだわ」なんて言いあいながら見ているのだが、そんなボンクラ視聴者たちの期待を裏切る映画は無かった。ホラー映画時空にある映画は、そういう視聴者の期待に対して真摯に向き合っているという話だ。

 ホラー映画時空に染まった脳みそでこんな期待をしてしまう私にとって、『アメリカン・サイコ』のオチはどうしても消化不良で胸糞悪いのである。分かってる。歪んだ目で見ているから満足できないんだとは、分かってるんだけどな…。

 ホラー映画時空なら死亡フラグになりうるパトリックの行動を思い出してみよう。

  • 人種や性別について差別発言をする
  • 勝手な理由で人を殺す
  • 横柄な態度をとる
  • サカっている
  • 意識高いっぽい発言をする
  • 何かと自慢する(うるさく喋る)
  • ドラッグをやる(ほしがる発言も含む)

 他にもあったかもしれないが、まあこんな感じでここがホラー映画時空なら、さぞむごい死に様を晒すだろうに…!と思わざるを得ない。ちなみに上2つくらいはホラーに限らず、タランティーノの映画でも制裁され率を上げる行動だ。

 わしらと同じ人間だから、終わらない日常生活が続いていって、ずっとストレスに苦しむってか?いやいやいや、気取りくさったヤッピーは死ぬべきだね!!ほら、自分でポールの部屋の壁にDIE YUPPIE SCUMとか書いてたじゃねぇか!あの自慢げな殺人匂わせ発言が、とにかく気に入らねえんだよわしは!

 私は勝手に、パトリックが『オーメン』のソーン産業の社長にあのノリですごく失礼なことを言ってしまい、悪魔パワーで無残に死ぬとかそういうクロスオーバーを妄想してしまう。他の映画とクロスオーバーしたら、こいつは多分死ぬぜ。そういう妄想でもするしかない。

 『ハンニバル』原作のラストはすごいと思った。パトリックはレクター博士を見習って、いっぺん刑務所にでも入って運命の女性との出会いを待った方が良いと思えたね。知らんけど!

80年代との付き合いかた

80年代が足りない

 ホラー映画ファンとしてはやっぱ、死んでくれと言いたい――。わしはこの作品の意図が理解できた気がしたが、やはり終わり方だけは気に入らなかった。

 あと、オリバー・ストーンの『ウォール街』(1987)*3を見て以来、「クロスワードパズルですか?手伝いましょうか?」とか言われているパトリックのことが気の毒で仕方なくなったりもしたのだが、やはり初見の時に感じたなんでやねん…?という気持ちは変わらない。

 そしてこの映画の気に入らないポイントは他にもある。80年代という時代の扱いである。

 パトリックの会話の中に、テッド・バンディとエド・ゲインという実在の先人達の名前が出てくる場面がある。しかし、パトリック以外、誰も彼らのことを知らない。90年代には有名人だったんだけどなぁ。この映画は80年代末が舞台だから、まだよっぽどの好事家以外は知らないのかもしれないと思った。

 シリアルキラーがブームってさあ、90年代おかしくね?今となっては、そういう気がしてくる場面である。

友人「エド・ゲインって誰だ?」
パトリック「50年代のシリアルキラーだ エド・ゲインが言うには、通りの向こうから美人が歩いてきたら、自分は2つのことを考える 1つ目は、彼女を連れて帰って、話をして、素敵な人間として彼女をもてなしたいということ」
友人「2つ目は?」
パトリック「彼女の頭を棒に刺してみたら、どう見えるかってことだ!」

 そこは良かった。しかし、10年代の80年代ブームに乗っかって80年代成分を生きる糧にしてきた現在の私にとって、この映画の80年代感は物足りなかった。なんだろう。髪型とか…クラブの内装とかなのか…。80年代風のクセの強さが足りない。

 これは暴論だが、今振り返ってみれば80年代は、暑苦しいほどエモーショナルなカルチャーが流行った時代だったと思う。その反動で90年代には、情緒的に落ち着いたクールなものが流行ったのではないか。

 シリアルキラーは相手の感情を丸無視し、平然と人を転がしておいて良心の呵責もない。そして人智を超えた動機を持っている…そんな様子が、究極的にクールだと見られていたのではないか。と『ヒッチャー』(1984*4を見ていて思った。知らんけど。

80年代はダサかった

 で、問題は、映画『アメリカン・サイコ』が公開された2000年頃には、80年代はダサいという価値観があったことだ。30年前の流行はリバイバルするが、20年前の流行は常にダサいのである。それが理由で、80年代らしさの描写がちょっとマイルドになっているのかもしれないと思ってしまった。

 80年代の物質社会への風刺とはいうが、80年代らしさがもの足りない。私は映画を見るとき、画面の雰囲気から制作年代と作品の時代設定を当てる趣味があるのだが、この映画はなかなか時代設定が分からなかった。映画化の際に、80年代という設定が無くなったのかとてっきり思ってしまった。

 しかし、それが悪いことなのかは分からない。個人的にはそう思ったってだけで、作品の意図としては表面的な付き合いや無関心を風刺しているわけなので、80年代に限らず普遍的なテーマだと思う。80年代にそこまでこだわる必要は無かったのではないか。

 今となっては80年代のロックは大好物だが、原作を読んでいた当時の私は、実際にこの音楽を聴いてみようとは思わなかった。ゼロ年代当時の私は、プログレ四天王*5のデジタルリマスターCDが紙ジャケで発売されるのを楽しみに待っていたり、マリリン・マンソンの大ファンだったりした。80年代の音楽はとにかくダサいとしか思えなかったのだ。

 ゼロ年代のころの私は、80年代のファッションや音楽に対する恥ずかしさを猛烈に感じていた。アルトサックスの音が聞こえてくると、うわダッサ!!とか言っていた。ものすごい嫌悪感だったことを覚えている。

 映画『アメリカン・サイコ』は要所要所に、80年代の明るい音楽が流れている。現在の私は80's vibes!groovie!とかいって喜んでいるが、公開当時に聞いていたらうっわダサ!!などと思ったに違いない。勝手なもんである。

前の時代との付き合い方

 アーノルド・シュワルツェネッガーの『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993)は、シュワちゃん本人が自分の過去の出演作品…つまり脳筋アクション映画のセルフパロディをやった映画だ。こんな感じで、ある程度様式が完成されてきたジャンルの、あるあるネタで作られたパロディ作品がある。

 ホラーなら『スクリーム』(1999)とか『キャビン』(2013)みたいなやつのことだ。今の日本のラノベ界隈でいうなら、なろう系異世界転生小説のパロディのような作品だろう。

 こういうパロディには前の時代を総括し、あるある!で笑った後、そこを乗り越えて新しい表現を切り開くんだぜ的なポジティブな意図がありそうなのだが、『アメリカン・サイコ』原作も、時期的には同じ意図がありそうだと思っている。80年代のトレンディな生き方のパロディを作ることで、前の時代の良くないところを笑うことができる。多分そうなんだと思う。

 この時代の感覚が、とても難しいと思った。どういう感覚でこの映画の時代を見るべきなのか?映画が公開されたゼロ年代の感覚で見るべきなのか?原作が書かれた90年代初頭の感覚で見るべきなのか?

 個人的には80年代みが足りなくて残念なんだけど、ここまで書いてみたら、まあ80年代に寄せすぎるのも難しかったんだろうし、その必要も無かったって思うことはできた。なんでも文章にしてみるものである。

さいごに

 私はヴェイパーウェイブから80年代風のカルチャーにはまり、80年代の空気に憧れていた。しかし過去形である。

 去年の12月に急に、気が変わってきた。殺人鬼とプロファイリング、シャカついた音楽、そして変なテキスタイルのファッションが流行っていた90年代の雰囲気に興味が出てきたのだ。20年代になったから、そういう空気に自然に変わったのかもしれない。どんだけ過去に生きてんだよ。
 なのである意味、この別のリバイバルブームにハマりつつある移行期間みたいな時期に、この映画を見れて良かったと思った。あの頃とは違う価値感を感じられるのは、まあ私も30年くらいの期間を、ぼんやり生きてこれたからなんだなぁと思うことにした。

 あと、死亡フラグが回収されなくて辛くなっても、普通の人が見る映画の世界の法則は違うのよ…と思えるようになりたいと思った。

おまけ

 あと、どうでもよい話を。

 パトリックがデリバリーのお姉さんを呼ぶシーンで、もともと下がっていた好感度が爆下がりした、というレビューを読んだ。気持ちは分かる。ここで株価もストップ安って感じだ。原作ではこのあと確か、ブロンドではない女が来てがっかりしたが、オッパイがでかいのを見たらどうでも良くなったという記述があったと思う。どうでもよいが、この記述はとても印象に残ったよね…。

 まあ、こんな話はパブリックの場でするような話ではないし、それを垣間見たらガッカリしてしまうのは仕方ないんじゃよ。しかし、前の職場の先輩(女性)がおっしゃっていたこんな話がある。

 "東京に転勤したZさんがね、こないだ帰って来たとき言ってたんよ。「オレ、その日は暇で、デリヘル呼ぼうと思って電話したんす。かわいい女の子1人お願いします!って元気よく言ったあとで、オレ、デリヘルと間違えて取引先の人に電話かけてたって分かったんすよ!ガハハ!」なんて、頼んでもないのに言ってきたんよ。サイテーよ。"

 Zさんのこの話に比べりゃ全然マシだよ!なんてことを思い出してしまいました。以上です!

*1:『マニアック』は殺人鬼が主役で、90年代のシリアルキラーブームを先取りした作品なんだと思う。リメイクも作られているし、多分そうだと思っている。

 『マニアック』に登場する殺人鬼の動機は、まあ普通に異常である。いやまあ、頭がおかしいという意味である。そんな殺人鬼の異常なモノローグを聞きながら、無辜の女性たちが殺され、頭の皮だけが持ち帰られるところを視聴者は見ていくのだが、殺人鬼は最後に警官に撃たれて死ぬ。自業自得である。なのでそこまで後味は悪くない。

*2:この記事を見ると、コメント欄にそういう書き込みがある。トロンファン達のブログでは、もっと嫌がられている様子が見られる。上の動画のコメント欄にも、そういう嫌われっぷりが垣間見える

www.polygon.com

*3:ウォール街』は80年代のみならず、映画の中のメンズファッションを語る上でも欠かせない作品として『アメリカン・サイコ』と並んで紹介されることが多い。こういう記事の中では、パトリックはゴードン・ゲッコーと互角に戦える。

www.esquire.com

*4:ヒッチャー』も、後年にリメイクが作られた殺人鬼映画だ。この映画のルトガー・ハウアーはヒッチハイカーを装い、次々と人を殺す。

 殺人鬼は主人公を巻き込んで悪逆非道の限りを尽すのだが、その動機はなんと、死にたいからである。日本でもゼロ年代以降に問題になった、死にたいから殺すヤツだったのだ。最悪だ。でも最後には撃たれて死ぬ。

*5:要するに70年代のロック

BLセッションをするときは、必ずプレイヤーの地雷についてリサーチするんやで。せんかったら死ぬで。(ブログ主からのメッセージ)