greetings programs!
お久しぶりです。また語ります。コボラー的な自己紹介は前の記事に書いたので、そっちも読んでおいて下さると、今回の話が分かりやすくなるです。
daitokaiokayama.hatenablog.com
前回『トロン』(以下、『オリジナル』)について語りまくった時に、意図的に避けた話題があった。それは、私は『トロン:レガシー』(以下、『レガシー』)は映画館で見たという話だ。つまり、10年前に見た。原作より先に。
そして、生涯ベスト10に選ぶくらいには好きな作品という話だ。これは去年のツイートだが、今でも多分、トップ10には入れざるをえない映画だと思っている。
#好きな映画を10個あげると人柄がバレる
— コボラー@ろーどないつ宣伝相 (@zisonsin19) December 12, 2019
ホット・ショット2
マッドマックス 怒りのデス・ロード
エスケープ・フロムLA
ブレードランナー2049
シャイニング
トラ!トラ!トラ!
スターウォーズEP3
ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ
コマンドー
トロン:レガシー
我ながらお察しの内容だな!
しかし、他人にはおすすめしない。
好きなところはある。とはいえ一人の映画ファンとして、ダメ出しをせざるを得ないところの方が多いので、猛烈大プッシュするわけにはいかない。
ダメ出しの内容は致命的だ。おすすめするならとりあえず、「この映画は、前半のボルテージの高まりが後半まで持たない。後半は、視聴者ほったらかしで話が進むとしか言えない。中盤にヒロインが出てきた辺りから、テンポが悪くなり始める。ただデザインと音楽が良いから私は好きなんだけど」とか言っておいて、予防線を張るだろう。10年前には「ストーリー以外の全てが素晴らしい」という一言で片付けていた。
この記事をここまで書いてみて思った。素直に褒められねえのかよ!!
そうなんだよ!私は好きなんだけどとしか言えないから、褒めにくいんだよ。この映画のダメさを受け入れてしまっているので、けなされても反論する気になれないんだよ!
「『ランボー怒りの脱出』ってラジー賞5冠らしいよ。ジェームス・キャメロンも巻き添えで受賞してる」と言われれば「なんでよ!どうしてよ!!?ひどい!!」といって悶絶できる。しかし『レガシー』に関して「ダフト・パンクのMV」と言われれば、「うん、そうかもしれん」と言うしかない。めちゃくちゃ悔しいけんだけど、そう言ってしまうと思う。見れば見るほど残念な映画なんだよ!
今日届いたのが嬉しくて記念撮影した。ここだけ80年代がリバイバルしてる。ランボーはBD。トロンはコミカライズの原著。
— コボラー@ろーどないつ宣伝相 (@zisonsin19) August 31, 2020
アメコミを初めて買ったんだけど、同人誌みたいな装丁でびっくり…そして定価の2倍の値段がついていたことにもびっくり(定価10ドル。安い) pic.twitter.com/qiUlE65Duw
ていうか、ランボー2が好きって言った瞬間に馬鹿にしてくるヤツの存在が本当に許せない。あのベトナム兵みたいに矢で爆死してえのか!などと真面目にムカついている。
そんなわけで、今回の記事はこの『レガシー』の沼ポイントや好きなところ、理解できたところについて、思いついた順に書いていく感じでいく。つまりだいたい寝言である。やれやれだぜ。
考えたこと
映える映画だと思う
では、そんな感じで褒めらたものではない『レガシー』の何が魅力なのか?について一応書いておく。まずはこの動画をどうか見て頂きたい。いや本当にお願いします。
TRON: LEGACY - Daft Punk's "Derezzed"
これは予告編というよりは、公式が作ったダフト・パンクのサントラの紹介動画だ。予告編よりこっちの方が気分がアガる。これだけ見ても、ハマる人はハマると思う。『レガシー』はそういう映画である。絵的な「映え」がすごいのである。
そもそもなぜ私は映画館に『レガシー』を見に行ったのかというと、電器屋のチラシでこの映画の宣伝を見たからだった。
当時は何でもかんでも3Dが流行っていて、電器屋のチラシには3Dテレビがばーんと掲載されていた。そこに、このディズニー初の3D映画として売出し中だった『レガシー』の宣伝も入っていた。
3Dテレビの画面から飛び出るクオラの写真を見て、当時の私は衝撃を受けた。そして模写してイラストを描いていた。なんていうか、すごいSF映画が出てきたと思った。なんせ衣装が光っている。映(ば)えという言葉は当時まだ無かったと思うが、とにかく見栄えがすごいと思った。『オリジナル』のことは、学生時代に美学美術史の授業で聞いていたので、メディアアートの歴史に残る名作(?)の続編が30年ぶりに作られました!というネームバリューもあったため、その存在を知った日からソワソワし続けた。
そして、サントラのディスクレビューがロッキンオンに掲載されているのを見つけ、ダフト・パンクが仕事しているならもう見に行くしかねえなと思った。中身の良し悪しはともかく、映画館に駆けつけねばならぬと思った。
以下、本編の結末についてのネタバレが若干あります。
私は映画館に行って見て、「お父さん(フリン)の心情の変化に納得がいかねえ、この人絡みの場面は置いてけぼり感がすごい」「しかし衣装とか音楽とかデザインは良かった」とか言いながらパンフレットとクリアファイルとサントラだけは買った。ダフト・パンクは劇中にも例のヘルメットを被って登場するが、それで違和感がない世界観で良かった。そんな感じのことを考えながら、満足していたのである。この頃は。
しかしあれから10年後の今年、『オリジナル』を見て共感の嵐になってしまったせいで、私は『レガシー』の残念さに我慢ならなくなってしまったのだ。難儀なものよ。ほんとにな。
レガシーの意味に気がつく
『オリジナル』を見て元プログラマーとしてわかりみを感じたとき、『レガシー』について気がついたことがある。レガシーという言葉についてである。
レガシーとは、遺産という意味である。スバル車といえばレガシー…という具合に、良い意味の遺産という意味で使われる場合が多いと思う。
思えば『オリジナル』は、労働に対する対価の物語だった。私としてはそういう結論になっている。前作で自作ゲームの著作権に固執していたフリンは、この続編でやはり自分が作り出したものの対価…というよりは、代償に苦しむことになる。物語の結末を見れば、良い意味の遺産の物語というタイトルは確かに納得がいく。
しかし一方で、ソフトウェア業界でレガシーという言葉は「生きた化石」みたいな悪い意味で使われている。こんな古いシステムがまだ現役だってよ、困ったねえという嫌な空気感がこのレガシーという言葉には含まれているのだ。私はずばり汎用機というレガシー専門のコボラーだったので、このレガシーという専門用語には並々ならぬ因縁を感じてしまう。
なので、80年代に父が作り始めたシステムが実はまだ生きており、その頃作ったプログラムが今問題を起こしているというこの作品のあらすじは、いわゆるレガシー案件だと思った。これもまた納得のいくタイトルだ。
…ということに、今年になってから気が付いた。2010年頃の私は確かに現役のコボラーだったが、ぶっちゃけ仕事が嫌だったんだと思う。なかなか親近感のある話題じゃね?このタイトルおもろいな!とは一切思えなかったあたりに、映画を見ている間くらい仕事のことを忘れたかった必死な気持ちが伝わってくる。まああの頃は汎用機の下僕みたいな生活をしていたからな、仕方ねえな。
沼の存在を知る
やっと今年『レガシー』のBDを購入し、この映画の何が自分的に魅力だったのか見ながら考えていった。そんなことをしていると、次第に自分でも信じられないくらい深く沼にはまっていった。
前の記事以降も相変わらず体調が悪いし、仕事もきつい。そんな調子で疲れて帰ってきたのに、私はなぜか『レガシー』のBDを再生してしまい、エンド・オブ・ライン・クラブのシーンでコマ送りとスロー戻しでエキストラ達の衣装を観察してしまうのを止められなくなったのである。
本当に本当にしんどかった。プレイヤーに『レガシー』のBDが入ったままになっていると、惰性で繰り返し再生してハッと気がついたら1時間くらい経過していることが多かった。そしてスマホのカメラロールには、スクショ代わりに撮った写真がやたらたくさん保存されていた。いやもう本当に、キング・クリムゾンの攻撃を受けているんじゃないかとしか思えなかったが、こんなことが数日間続いたのである。
私は自分の陥った状況が怖くなったので、プレイヤーに別の円盤を入れるためにわざわざ津山のツタヤに行き、郵便返却でDVDをレンタルした。日記にそう書いてあるからには事実である。
レンタルしたのは、チャウ・シンチーの『喜劇王』だった。チャウ・シンチー映画のベッタベタなギャグのおかげで、正気に戻れたと言える。これが今年の10月末のことである。
カルトムービーであることを知る
『オリジナル』から『レガシー』が公開されるまでに、約30年かかった。こうして30年後に作られた続編には、なるほど『オリジナル』に対する信仰的なサムシングが満ちていた。これがカルトムービーに対するリスペクトなのか…と思った。
この手のクソデカい感情に気がついてしまったとき、製作者の意図に対するわかりみが発生した。「すごいこだわりだな」
わかりみが発生すると、製作者に親近感を覚えてしまった。「前作が好きな気持ちだけはよく分かった」
製作者に親近感を覚えてしまうと、あとはお察しである。「悪気があったわけじゃないんだよな…この映画…」
製作者に親近感を覚えてしまうと、客観的な評価とは別にものすごい執着心を覚えてしまい、面倒なマニアになってしまうのだ。「この映画を批判して良いのは円盤を買った者だけじゃ!!」
なんて恐ろしいんだ。と、自分の身に起こったことを分析して他人事のように感心した。完璧な作品ではないがゆえに、その欠陥の評価に悩んだ経験がより強力な執着心を生むのである。
難儀よのぉ。ほんとにな。
この映画の"完璧"とは何か考える
私は今年の夏から『レガシー』について色々書いていたが、この映画を語ることの難しさに直面した。
上にも書いた通り、私はこの映画のダメさを受け入れてしまっている。つまり、ダメ出しをすることができる。しかし、映画のダメ出しは難しい。こうしたら良かったのではないか?という可能性は無限に存在しうるので、書いていったらキリがないのである。
この記事も本当は、ダメ出しという名の愛のムチでビシバシしばいていく内容にしようと思っていたのだが、愛がなさすぎるのでやめた。愛っていうかまあ、どうしようもない内容だったので没にした。
ソフトウェアの開発には、顧客の要望とか法令といった完璧な目標があり、目標と違っていた箇所はバグだと分かる。しかし、映画などの創作には完璧はあり得ない。この映画の顧客は、あなたではない。ノットフォーユー!!!と言われてしまえば、ダメ出しは全て破綻する。ダメ出しをされて出てくるバグなんか無かったことになる。そりゃそうだ。
フリン「完璧には常に未知の部分が残る 手が届かないようで 実は目の前にある」
そして、完璧(perfect)はこの映画のキーワードでもある。だから完璧を求めてはいけないんだよ、可能性があることは不完全に見えるものだから…と説得されてくる気がする。うわ〜!そうかも!
いやいやいや、ねーよ。そういうのはカルト的な信仰が生じさせる幻覚だから、騙されたらだめなやつなんじゃって!!私は一人でノリツッコミをした。
『レガシー』の諸問題は、ディズニーがメディアミックスを展開しようとして失敗した結果起こっている可能性がある。いや、単純に脚本とか編集が微妙だからだよ!いやいやもしかしたら、劇伴がエモーショナルに鳴りすぎてうるさいからかもしれない。いやいやいや、そんなバカな…。私は逡巡した。
ディズニーのせいにしようとする
自分の感覚的には、やはり映画本編が微妙であることは事実であり、その辺は擁護しきれなかった。しかし、未完のプロジェクトとストーリーが残っているのは事実である。
『レガシー』では、リンズラーがどういう経緯で出てきたのか、フリンがクルーとどう戦ったのか、そういうシナリオフックだけ出てきたけど詳しい話はしない。グリッドの開発が始まり、フリンが失踪するまでの間に起こったことをアニメーションのシリーズにする予定が、1期で打ち切りなんだもんな!聞いてて辛いんだよそういうの!
この映画、トロンの扱いが雑なんだよな…!詳しくは言えないけど色々と詰めが甘いんだよなぁ!!コミックと映画でトロンの髪型が違ったりするの、個人的にはすごく違和感があるんだけどみんなは平気なのか!?あとあのアニメーションの絵柄はなんか微妙で、見る気になれないとか色々…残念なんだよ!!
そんな無念さが、中盤の回想シーンに凝縮されている気がする。あのトロンが!めっちゃウンザリしてる!って感じで好きなシーンなんだけども…。
フリン「そう急かすなよ、計画は全部ここ(頭)に入ってるから」
クルー「フリン!私はまだ完璧なシステムを作り続けるのか?」
フリン「…イェア!」
クルー「…(無言で部下をけしかける)」
このシーン、クルーに呼び止められたフリンが一瞬真顔になるところも好きだ。この残念なキャラはちょっと『フィッシャー・キング』みたいだな。
さいごに
クルー「お前は壊れている」
色々とクダを巻いてきたが、お分り頂けただろうか…。『レガシー』はこういう映画なので、あまり期待して見ないでください。でも、エンド・オブ・ライン・クラブのシーンに出てきたエキストラ達のファッションは好きです。そういうとこだけは見てほしいです。
という結論を出すのに、半年近くかかってしまった。こんなグダグダな記事だけど、年内にアップできて良かった。きょうてえ*1なあ、カルトムービーはきょうてえなあ…!ほんまにな…。
END OF LINE■
*1:岡山弁で怖いという意味